祖母は戦時中満州に行き、悲惨な体験を経て帰国しました

こんにちは!福井県敦賀市の建築会社あめりか屋の失敗しない家づくりアドバイザーの篠原秀和です。

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ぼくの祖母は満州に行ってました

今日は終戦記念日ですね。昨日は安部総理が素晴らしい談話をしてくださったこともあり、今日はぼくの祖母が書いた手記を元に作成された本について書いてみます。

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↑今年1月に祖母が亡くなった後に再編された手記

ぼくの祖母は、二十歳のころ、満州の興亜報国農場女子奉仕隊の一員として満州に行っていました。福井県嶺南地域の女子奉仕隊として、国論・世論・村の雰囲気からおされることもあり、長女であったぼくの祖母は昭和20年4月に満州へと旅立つことになるのでした。

 

70年前の事実

満州での農場奉仕生活もしばらくしてご存知の8月に敗戦となり、敵国に残された状況となりました。想像を絶するような混乱の中、いやゆるひとつの難民として悲惨な逃避行をすることになりました。

・敗戦直後、残っているもの全員で自決をしようと迫られたこと。

・乞食のような難民生活を送っていたこと。

・匪賊(徒党を組んで略奪・暴行などを行う賊徒)からの襲撃・略奪、ソ連兵からの略奪・婦女暴行の危機にあったこと。

・一緒の団員の先生や友人が襲撃されて亡くなったり、病死したこと。

・女ばかりで危ないからと、髪を切り顔を黒く炭で塗り、男に扮したこと。

・無理な結婚をしていくものがいたこと。

・中国に残らざるを得なかったものがいたこと。

・・・

これらすべてが70年前にぼくの祖母が体験した事実です。

 

受けたご恩に感謝していました

そんな悲惨な状態の中でも、仲間力をあわせ、犠牲になった方々に見守られながら、昭和21年10月には日本へ帰ってくることができました。

帰国直前は比較的治安のよいチチハルにて、満州人の家庭に雇われて働くことになった祖母。心ある満州人のおかげで大変かわいがられ大きなご恩をいただいたそうです。

その時のご恩は、孫のぼくにもたまに話をしてくれることがあり、生涯ずっと、お世話になった満州人のことを感謝していました。

 

平和な今だからこそ

ぼくはこの再編された手記を改めて読み、祖母がこのような体験をして生き抜いたことに誇りを感じています。

また、当時、自分の身を犠牲にしてでも助け合った多くの誇らしい日本人が、託していただいた今のぼくたちという未来は、どのようにうつっているのだろうか。そんなことも考えさせられます。

なにもかもが当たり前に感じてしまう今、平和ボケするのも結構なことですが、先人の苦難の上に今があることを忘れてはなりませんよね。

だからこそ、今のこの時代を、笑って生きていられるんですよね。

明るく、前向きに、誰かのためにと生きることができるんですよね。

平和な世の中が今後もずっと続くよう願いをこめて、今日はこんなブログにさせていただきました。ありがとうございました。

 

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篠原秀和(シノハラヒデカズ)ニックネームはシノハラ(カタカナで。笑)
株式会社あめりか屋 代表取締役
一級建築士・住宅ローンアドバイザー
1977年6月23日生まれ
福井県敦賀市在住

2000年に日本大学卒業後、20代の頃は大手ゼネコンにて設計職と施工管理職を経験し、あめりか屋3代目として2007年から勤務。2011年頃から本格的に住宅事業を担当するようになり、業務は営業というか楽しいステキなお家づくりのプロデューサーをしています。
また自身のブログは2013年4月から毎日更新中。
・・・というマジメな仕事ぶりとはまた違った一面を持っていて、SNS(Instagram、twitter、Youtube、Facebook、TikTok)では楽しくてクスっと笑える投稿を日々発信中。ぜひフォローしてやってください。